2006年5月 2日
アンドレ・ジッドの妄想
彼女の踝にしゃぶりつきたい衝動。
軽い、春らしいスカートは少し流行おくれな雰囲気で
その黒く重々しい髪に似合っていた。
ひどく困惑した面持ちで、彼女はその細い踝をもじもじとさせ
「Nさん、ですか?」
と、弱々しく尋ねた。
「はい。」
僕のその声は多分、まるで黒板の問題をわかるかと尋ねられ
わかりもしないのにわかると答えてしまったときのように
あまりにも業とらしく聞こえただろう。
彼女は口角だけで微笑んで、
「お手紙をありがとうございます。いつも・・・。」
と、今度は多くの困惑を隠しもしないで言った。
「迷惑なのは承知でした。でも、あまりにも貴方が不憫で。」
そして、儚く美しくて。
こう続けることは、僕には出来なかった。
彼女に手紙を書いたのは、彼女の父であるK氏の葬式から
三日もたたないうちだったと思う。
黒のスーツに身を包んだ彼女。
艶やかな肌が、その黒という色の毒々しさの中に隠れて
透き通るように輝いていた。
友人であり、恩師であるK氏の死を目の前にしてもなお、
その娘である彼女の黒いストッキングの中に隠れた踝に息を呑まずに入られなかった。
僕は手紙を書いた。
最初の手紙は、いかに父であるK氏に世話になったか。
K氏を亡くした事をどれほど苦々しく感じているか。
これから先の彼の家族の行く末をどれほど心配しているか。
最後に、何か役に立てないか?と付け加えるのを忘れなかった。
彼女からの返事はすぐに届いた。
当たり障りないもので、父の死はとても残念で仕方がないけれど
行く末は大丈夫だから心配は要らないということだった。
とても繊細で優しい文字だった。
それからすぐに僕はまた返事を書き、
彼女の手紙に安心したということをまず書き、
自分のことをK氏との思い出を含めて書いた。
それにも彼女は丁寧な返事をくれた。
僕は浮き足立って多くの手紙を書いた。
10行に1行はK氏のことを書いて。
とうとう、彼女から個人的に会いたいという返事が来た。
K氏の葬式から10週目の日曜日だった。
僕は一度見たきりのあの踝に多くの野望を持っていた。
もう、彼女そのものは僕の手中にあるかのような気持ちでいたのだ。
彼女は携帯電話のストラップがかばんからはみ出しているのを気にしながら席に着き
僕の正面に座ると、とうとうその携帯電話をかばんに押し込んだ。
「僕のことを覚えていましたか?」
僕は自信にみなぎる口調で聞いた。
彼女はなおもストラップのことを気にしながら、目線だけ僕に向いて首を振った。
少しの驚きと、黒い絶望感が影を伸ばして近づいていたが
僕はもう、彼女の踝を掴んでいると確信していたので驚きしか思考に入らなかった。
「・・・どうして、会いたいといってくれたのでしょうか?」
彼女はかばんをしっかりと放さずに握り締めて言った。
「こんなオヤジじゃないと思ったからね。」
僕はすぐさま言葉を返すことは出来なかった。
すると、彼女の口角は意地悪く引き上げられてなおも続けた。
「パパのお葬式に来ていて、わたしに手紙をくれるなんて!
絶対にパパの講義を受けていた学生だと思うじゃない!」
最後のほうは、怒りに任せているといった口調で
彼女は立ち上がり
「この、変態!」
小さく呟く様に、しかしまっすぐと僕を見ていった。
僕は教授であるK氏の学生ではなく、学友なのだった。
ひどくうなだれた気分で、彼女のスカートからひらひらと見える踝を見守った。
あの踝は、僕のものだったのに。
僕がデブでハゲの50歳でなければの話だ。